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ニルヴァーナ 画像

ニルヴァーナは90年代初め、アメリカでインディーズのものとされていた 音楽を一気にメインストリームに押し上げた。 その結果それまでのハード・ロックシーンは崩れ、グランジの幕が開けた。 シングル"スメルズ・ライク・ティーン・スピリット"と アルバム"ネヴァーマインド"は当時の音楽業界に衝撃を与え たと共にその後のロックシーンの流れを決定ずけた。 ニルヴァーナは90年代の最重要バンドであり、ロック史上屈指の革新的、革命的バンドである (ただしカートはそう称されることを嫌っていた)。

カート・コバーン・・・ボーカル、ギター
クリス・ノヴォセリック・・・ベース
デイヴ・グロール・・・ドラム

「なぜ俺はギターを壊すのか?なぜ壊さないんだ?気持ちいいぜ。 そもそもあのクソギターを作るために誰かが樹齢の長い、いい木を切り倒してるんだからさ。 やっちまえ!」
byカート・コバーン

カート・コバーンの生い立ち

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カート・ドナルド・コバーンは1967年2月20日に誕生した。 21歳の父親ドンはガソリンスタンドで整備士として働いており、 当時10代だった母親ウェンディがカートを身ごもったのは高校を卒業してすぐのことだった。 カートが生まれて半年後に一家はホアキムからアバディーン中心部へ引っ越す。

初期のコバーン家は愛情溢れる家庭であった。 幼いころのカートはマンガのキャラを描いたり、家族そろってソリ滑りを楽しんだりしていた。 そしてカート・コバーンが8歳のときに両親が離婚し、幼きカートに衝撃を与えた。

「俺の昔話なんて同年代の90%のやつらとまるっきり同じだよ。」 と彼は"ギター・ワールド"誌に語っている。 「両親は離婚。高校のときはマリファナ三味。共産主義の権威をさんざんたたき込まされた時代だから、 核戦争で死ぬんだろうってみんな思ってた。だからみんなの性格は実質的に同じといっていいんだ。」

81年、カートのモンテサノ高校1年生としての生活がはじまった。 仲間はずれにならないためというむなしい試みとして、彼はアメフト部と陸上部に入っている。 その後、親戚の家を転々とし、アバディーン高校へ編入。 学校では友達を作らず、家でギターを弾く毎日を送る。 また、カートは、愛すべきジャンキーの作家ウィリアム・S・バロウズの大ファンだった。 有名となってからカートはバロウズと対面している。

その後、カート・コバーンはメルヴィンズ(アバディーン出身のパンク・バンド)のメンバーと出会う。 「彼らの演奏は、俺がそれまで想像していたスピードの限界をはるかに上回っていたし、 俺のアイアン・メイデンのレコードよりはるかに大きなエネルギーにあふれていた。 これはまさに俺が探していたものだ。ああ、パンク・ロック。」 そして、85年5月にカートは高校を辞めた。

クリス・ノヴォセリックの生い立ち

クリス・ノヴォセリック 画像

クリス・アンソニー・ノヴォセリックは1965年5月16日、クロアチアからの移民である父クリスと母マリア の長男として、カリフォルニア州コンプトンで生まれた。

ティーンエイジャーになる前のクリスと弟のロバートはまわりの誰にもなじめず、公共物破壊に 走るようになる。 「ロバートと俺はいわば背伸びしようとしたガキで、面倒ばっかり起こしてた。」 とクリスはマイケル・アゼラッドに語っている。 「タイヤを切ったりとかさ。親父は俺達をムチで打ってた。それしか罰の方法を知らなかったんだよ。 だから俺たちは親父を怖れてたけど、虐待されてたわけじゃない。いたずらに対する罰だっただけだ。」

79年に一家はアバディーンへ移った。身長約2メートルのクリスは町のどの少年にもバカにされていた。 カートはアバディーン高校の集会を妨害しようとしていたクリスの姿を思い出して、 「利口で愉快で騒がしく、みんなから笑われている。だけどそいつらより頭が切れた。」 と評している。 クリスは当時を振り返って「あそこの同年代の奴らとは全然ウマが合わなかった。最低な連中だったよ。 ほんとにひどい目にあわされた。」と言っている。

80年にクリスの精神状態を心配した両親は、クロアチアにいる親戚の元へクリスをあずける。 クリスはクロアチア語に堪能になり、さらにはセックス・ピストルズ、ラモーンズから 地元バンドにいたるパンク・ロックを聴き始めた。 「万人うけするようなメインストリームのヘヴィ・メタルを聴いても、 俺はなんとも思わなかった。」 クリスは自伝のなかでそう書いている。

戻ってきてから、クリスはタコ・ベルで働きはじめる。 それから彼もまたメルヴィンズに出会う。 カートがはじめてクリスの存在に気ずいたのもこのころで、ロバートがカートを家に連れてきたのが きっかけだ。2階で鳴ってる騒音はなんだいとカートがロバートに尋ねると「ああ、兄貴だよ」 と彼はこたえた。「パンク・ロックを聴いてるんだ。」

デイブ・グロールの生い立ち

デイブ・グロール 画像

デイブ・グロールは69年1月14日、オハイオ州ウォレンに生まれた。 父親のジェームスは新聞社に勤め、母親のヴァージニアは高校の国語教師だった。 デイブが3歳のとき一家はヴァージニアに引っ越し6歳のころに両親が離婚した。

ドラムを早い時期からはじめたが、自分のキットは17歳になるまで持っていなかった。 ただそのときすでにバンドで3、4年ほどドラムを叩きはしていた。

決定的だったのはいとこにパンクの洗礼をうけたときだ。 「それからはもうパンク一筋だった。」とデイブはマイケル・アゼラッドに語っている。 「うちに帰ってから"マキシマムロックンロール"誌を買って必死に読んだよ」 若き日のデイブはパンクにぴったりの子供だった。やんちゃで活力旺盛。 町で遊びまくっては、マリファナを日に4、5回喫煙していた。

当時を知る人は 「デイブみたいな活動的なやつは見たことなかったよ。いつも興奮しててさ、すごく痩せてた。 躁病の極みだよ。いつも俺の持ち物を壊してたな。眠ってる姿を初めて見たときはびっくりした。」 その後、さまざまなバンドを転々とし、86年にデイブ・グロールはスクリームに加入。 しかしスクリームも長くは続かず、困ったデイブはメルヴィンズのメンバーに電話で 相談し、そしてチャドが抜けたあとのニルヴァーナに加入することになる。

ニルヴァーナの歴史

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ティーンエイジャーのころからカート・コバーンはバンド結成を熱望していた。 メルヴィンズのオーディションを受けていたが落ちている。 いっぽうで曲作りも始めている。 好きなヘヴィ・メタルのフレーズやカートのオリジナルを何曲か、 カート、クリス、ジェシーの3人でジャムったりするようになる。 その後カートとクリスが中心となってスキッド・ロウを結成。 87年のはじめカートとクリスはアーロン・バークハードを加えて練習を始め、 87年4月には初めてのラジオ出演を経験した。この頃さまざまな場所で何度も演奏していた。

88年、バンド名はこうなった"ニルヴァーナ"。カートの発案だ。この名前を思いつくのに 仏教の信条を参考にしたと語っている。 「美しいか、素敵なバンド名にしたかった。アングリー・サモアンズみたいな、 いやらしくて卑劣なパンクっぽい名前はごめんだったんだ。」

カートはニルヴァーナをモンスターバンドにしようとは思わなかったが、 バンドの収入で生活したかった。 そのため、ある程度の稼ぎが必要だった。

88年の間、カートはデモ・テープに手書きの長い手紙を添えて、彼の お気に入りのバンドが所属しているアメリカの各レーベルに送っている。 しかし返事は1通もこなかった。 89年1月、ニルヴァーナは本来の計画に入っていなかった"サブ・ポップ"と契約する。 そのためサブ・ポップと話を進めていた段階でも彼らは他のレーベルにあたっている。

ニルヴァーナはドラマーが安定しなかった。そんな中カート、クリスとウマ が合ったチャド・チャニングが加入する。

88年のクリスマス・イヴ、ニルヴァーナはデビュー・アルバム"ブリーチ"の製作に取りかかった。 3人はスタジオに計5回通ってアルバムを仕上げた。 「失うものは何もなかった」とクリスはコメントしている。 歌詞はギリギリになって出来上がり、いくつかは前夜に、ほかは移動中に書かれた。 カートは自分のヴォーカルに不満だったが、"ブルー"だけは気に入った。 収録された曲のなかには"アバウト・ア・ガール"、"スクール"、"ネガティヴ・クリープ"、 "スワップ・ミート"などがあった。

90年にカートはエヴェレット・トゥルーに 「俺たちの曲は自分を変えることとかフラストレーションについてだよ。 "スクール"は高校のときの友達とのつきあいのわずらわしさなんかが、 実は大人になってもパーティやクラブでおなじように繰り返されるっていうシュールな話さ。」と言っている。

"ブリーチ"が販売されたのは89年6月15日。サブ・ポップのプレス・リリースではこうブチ上げられている。 「オリンピアのポップ・スターが繰り広げる、本物のヘヴィ・サウンド。彼らは若い。 自前のヴァンも持っている。しかも我々を金持ちにしてくれる気だ。」

89年6月ニルヴァーナはバンド初となる本格的なUSツアーへ出発。 そして89年10月、ニルヴァーナは初のヨーロッパ・ツアーのためシアトルを出発した。 ぎゅうぎゅう詰めの9人のりフィアットで7週間に及ぶツアーの大半をすごした。

"ブリーチ"の反応は微々たるものだった。売上は200枚もいっていなかった。 しかしニルヴァーナのブレイク後このアルバムは再発され、ヒットすることになる。

ネヴァーマインドのジャケット 画像

90年2月ニルヴァーナは西海岸ツアーへ出発した。 そして90年4月ニルヴァーナは大急ぎで曲を作っていった。 "イン・ブルーム"、ウクレレのような音のする5弦のアコースティック・ギター でやった"ポーリー"、"リチウム"がレコーディングされ、 のちに"ネヴァー・マインド"に 収録されることになる。

ツアーはその後も進み、ワシントンDC、フィラデルフィア、ノースキャロライナとまわり それからジョージア州、オハイオ州、オクラホマ州、テキサス州、ネブラスカ州とツアーは 続いた。

そしてカートとクリスは予告もなくチャドを解雇する。 「人を殺したような気分だった」とカートは話している。 カートとクリスは人間としてのチャドは好きだったが、ドラマーとしては不満があった。 その後メルヴィンズのメンバーの紹介でデイブ・グロールが加入した。

91年、あるライブのステージでカートは 「やあ、俺達はメジャー・レーベルに魂を売った、ロックの裏切りものだ!」 といって演奏を始めている。

91年5月、ニルヴァーナは"ネヴァーマインド"のレコーディングにとりかかり、 レコーディングはおよそ3週間半で終了した。 アルバム"ブリーチ"があまりにお粗末な結果だったため、カートはこのアルバムでガレージ・サウンドに ポップ性を加わえることにした。そうして、陰鬱で荒々しくキャッチーな楽曲たちが出来上がったのだった。 中でも"スメルズ・ライク・ティーン・スピリット"は群を抜いてメロディが良かったため、アルバムの1曲目に持ってきた。 世界に衝撃を与えることになる"スメルズ・ライク・ティーン・スピリット"に関してカートは 「究極のポップ・ソングを書こうとしたんだ」と、94年に”ローリング・ストーン誌”に語っている。 「ピクシーズをパクろうとした。 ソフトで静かな雰囲気からラウドで激しくなるあの落差をね。」

"ネヴァーマインド"のジャケットは、カートが水中出産のドキュメンタリーを観て、 赤ん坊が釣り針についた1ドル札を追いかけている、というアイデアをおおまかに 話したことで実現した。 裏ジャケットにはカートのおもちゃザル、チムチムが登場している。

ニルヴァーナ 画像

ニルヴァーナ 画像

一般的にグランジとは、ハードな音楽をスロー・テンポで演奏するものといわれている。 グランジという言葉はもともとシアトルだけで使われていたが、アメリカ中で使われるように なってからは、シアトルではただのジョークになった。

80年代のアメリカでは、北西部には北西部だけのサウンドがすでにあった。 ハードロック、パンク・ロック、サイケデリック・ロック から均等に要素を吸収し、そこに今の息吹を注ぐという独特のサウンドが。

エヴェレット・トゥルーはグランジをこう解釈している。
グランジとは耳をつんざく音楽、そして雨。 ゲロであり笑い声であり、翌朝どこで目覚めるのかわからないこと。 くだらないバンドがOKホテルとヴォーグでサウンドチェックをするのを待ちながら、 退屈な時間を延々と過ごすこと。 誰かと同じマットレスで眠り、グレイハウンドの長距離バスで旅し、 ラリった仲間がビール・ジョッキで頭に殴りかかってくるような勢いで罵倒する こと。ハウス・パーティとメキシコ・ビール、おいしいコーヒーと ランバージャック・シャツのこと。

いくら"ネヴァーマインド"がポップ・センスのあるアルバムだからといっても 当時のアメリカではこのようなジャンルの音楽 がチャートのトップ40に入ることなど まずありえなかった。メインストリームのバンドになろうなんて ニルヴァーナが考えるわけがなかった。

92年6月、ニルヴァーナはふたたびツアーに出発。 8月にはヨーロッパのフェスティバル・ツアーにむけて出発する。 "スメルズ・ライク・ティーン・スピリット"がラジオでかかって何週もしないうちにおこった反響は 凄まじかった。MTVはすぐに興味を示し、のちにビデオが数時間おきに流れるようになった。 そして、後にこのビデオは90年代一番流されたビデオとなる。 このビデオの内容は最悪のスポーツ激励会が狙いだった。

91年9月24日、"ネヴァーマインド"がアメリカで販売された。販売後徐々に順位を上げていき、 11月、ついに"ネヴァーマインド"がビルボードトップ40の36位に入った。 11月から12月にかけてアルバムは35位、17位、9位と順位をあげていき、 学校の校庭で「カート・コバーンは神だ」と叫ぶキッズがアメリカ中に現れるようになる。 91年の終わり、ニルヴァーナは再びツアーに出る。 そして92年1月11日、マイケル・ジャクソンのアルバムを蹴落として"ネヴァーマインド"は 全米チャート1位になった。

ニルヴァーナは売れてしまったせいで、狂ったようになにも手に負えなくなってしまった。 メジャー・レーベルと関わってしまい、バンドの意思決定をレーベル側がやるように なっていったのだ。
"ネヴァーマインド"を作った当初、カートはトップ200にすら入ると 思っていなかったし、関係者もうまくいけばマッドハニーぐらいビッグに なれるだろうと思っていた程度だった。

カートはマイケル・アゼラッドに成功について話した。 「俺達は成功に憤り、バカ野郎になった。たっぷり酔っ払って、必要以上に楽器を壊す。 本当のくそったれになってやろうときめてね。みんなのイライラの種になりたかった」 「ストリート・ミュージシャン、それが俺の最終目標。」

デイブ・グロールも話している。 「世界を征服してやろうなんていう野望なんてなっかた。俺達のやってた音楽で世界一ビッグ なバンドになるなんてありえなかった。92年の1月あたりから大変なことになってきた。 ひどい不安発作に襲われた」

ニルヴァーナ 画像

「(人気ものになったことで)ひどい打撃を受けた。それにけっこう稼いでいたから ツアーにでなくてもいいんじゃないかと思ってた。800万枚とか1000万枚売れたって ことは、けっこうな額に思えたんだけどね。それに胃の病気のせいで ツアーはできなかった。5年も慢性的な痛みを抱えてる人間はもう、それだけで狂人だよ。」 この頃、バンド全員がツアー燃え尽き症候群に陥っていた。

4月にはニルヴァーナはスタジオに入り何曲かレコーディングしている。 その後、ニルヴァーナはまたツアーに出発。 「俺達は自暴自棄になってた。だからもうバンドになんかいたくないとはっきり思った」 "イン・ユーテロ"の収録曲で歌われているほとんどのことは 妻コートニーのことと、プレスへの中傷だ。

9月、ニルヴァーナはMTVのビデオ・ミュージック・アワードに出席する。 この時にMTV関係者とステージでどの曲を歌うかで口論となり、 「言うことを聞かなければ所属レーベルのバンドのビデオを流さない」と脅され、 ニルヴァーナは"レイプ・ミー"を歌いたかったのだが、 結局は"リチウム"を歌うことになった。また、ステージ裏でカートとコートニーがアクセル・ローズと 口論となった。そのため、演奏終了後にデイヴ・グロールはアクセル・ローズを挑発した。
その後、ニルヴァーナはアルゼンチンやブラジルを回る世界ツアーに出発。

93年2月、ニルヴァーナはサイモン・リッチー・グループの名前で パキダーム・スタジオに入り、レコーディングをはじめる。 カートは、バンドをはじめた当初から"イン・ユーテロ"のようなサウンドに ずっとしたかったと話している。"イン・ユーテロ"は スタジオでのニルヴァーナの最良の瞬間を捉えた作品である。 プロダクション、バンド、曲、心情、メロディ、ノイズの断片、タイミング。 これらすべてが最高の形で調和している。 しかも、今なおそのサウンドは斬新で、90年代初期の匂いそのままな"ネヴァー・マインド"の サウンドとは対照的だ。それになににもましてニルヴァーナが繰り広げる演奏が群を抜いていた。 これまでの論争、噂、インチキをすべて燃料に変え、音楽以外の自分たちのすべてを浄化 してしまいたいという願いの中でひたすら燃えている。

ニルヴァーナがスタジオに入っていたとき、"イン・ユーテロ"までのつなぎを目的にリリースされた ミニアルバム"インセスティサイド"がアメリカでゴールドディスク(50万枚)の認定を受けた。

5月になるとカートはアルバムのタイトルを"イン・ユーテロ"に決定した。 "イン・ユーテロ"は9月21日にリリースされ全米・全英1位を獲得した。

カートはライヴにもうひとりのギタリストが必要だと思い、 サブ・メンバーにパット・スメアが加入した。

カート・コバーン 画像

カート・コバーン 画像/

カートは成功について
「たいていの人が考える成功というのは、商業的なレベルでずばぬけて有名で、 レコードをばんばん売ってて、ざくざく金を稼いでいる、 人の目にいつも触れている、っていうやつだろ。 俺が成功と思っているのは、まだ自分の音楽に妥協していないってこと。」
「俺が昔は尊敬してた人たち、この人たちは何年も雑誌やったり レコード・レーベルをやってたりしていた人たちだけど、 彼らはメジャー・レーベルの中身がどれくらい汚れきっているか知ってたのに、 そんなこと教えてくれなかった。」

"イン・ユーテロ"ツアーは10月18日にスタート。 ニルヴァーナにとって初の大がかりなアリーナツアーとなったため、 メンバーはステージの大きさになじむのに手間取った。 11月18日にはMTVアンプラグドの収録をおこなった。

94年2月ニルヴァーナはヨーロッパへ飛んだ。 ヨーロッパツアーはサポートにバズコックスを迎え、 2月6日のポルトガルから幕を明けた。 カートはツアーをキャンセルしようとしたが、損失を負担することになるため仕方なくツアーは続き 、カートはクリスやデイブと口をきくこともほとんどなく、どんよりとした目つきを 泳げせているだけだった。

医者たちはカートに喉を2か月間休ませ、ふさわしい歌い方を覚えるようにと勧めたが、 それに対するカートの返答はパンク・ロック王道、「クソ食らえ」だった。 ニルヴァーナはヨーロッパ中を回っていったが、カートの鬱(うつ)はなおいっそう深まっていった。 ようやく、ニルヴァーナはヨーロッパ・ツアーの前半の残りの公演をキャンセルした。

その後、カートはローマの高級ホテルで自殺未遂をおこした。3月8日に退院し、その4日後に帰国した。 カートが自分自身どうなろうとまったく無関心であることになによりおびえたコートニーは、 ローマでの事件が自殺未遂であったことを知っていたこともあり、家のなかでのドラッグ 摂取を禁止した。

カートは病院に入院させられたが脱走し、シアトルの自宅に帰った。 そして、カート・コバーンは自ら命を絶った。享年27歳だった。
94年4月、ニルヴァーナは解散した。

コートニー・ラブ 画像 カートとコートニーと娘のフランシス 画像

コートニー・ラヴはカート・コバーンの人生に最も影響を与えた女性であり、 生涯の妻となった女性。 コートニーはカートと出会う前からホールというバンドを結成しており、 そのフロントマンだった。カートの死後は女優としても活躍し、ホール解散後は ソロデビューをした。

コートニーとカートは"ネヴァーマインド"前後から付き合い始めた。 カートは自分専用のパンク・ロックなガール・フレンド、 自分のためのナンシー・スパンゲンが欲しかった。 だがカートとコートニーはシドとナンシーには 似ても似つかなかった。 ちなみにコートニーはカートと付き合う前に、スマッシング・パンプキンズのビリー・コーガン と付き合っていた。

"ネヴァーマインド"がチャートを制するとカートとコートニーはメディアの取材合戦の的になる。 コートニーはクリスやデイブ、ニルヴァーナの関係者と仲が悪く、また、さまざまなゴシップが あったためメディアからは「ニルヴァーナを解散させようとしているオノ・ヨーコ」とレッテルを 張られたりした。 また、ドラッグの使用でふたりの誇大妄想はますます膨らんでいった。

カートとコートニーは92年2月24日、ハワイのワイキキ・ビーチで結婚式を あげた。カートはパジャマ、コートニーはドレス姿だった。またクリスとシェリは 結婚式に参加していない。
カートとコートニーの娘、フランシス・ビーン・コバーンは92年8月18日に誕生した。 コートニーが出産したとき、カートは中毒で衰弱していて点滴中だった。 コートニーが妊娠中にドラッグをやっているという噂が広まり、 二人は娘フランシスをめぐって裁判にかけられた。 だが、最終的にフランシスはカートとコートニーのもとへ戻った。

自分流を貫こうとするカートと世界制覇を目指そうとするコートニーでは、 音楽に対する姿勢が違った。 また、94年のヨーロッパツアー中、カートはコートニーの浮気をずっと疑っていた。

レコード会社の人間は「カートとコートニーの関係は嵐のように激しかった」と 語っている。

クリスが将来の妻となるシェリ・ディリーと出会ったのは 高校を卒業する数か月前だった。きっかけはシェリがセックス・ピストルズの"勝手にしやがれ"を 絶賛するのを耳にしたことからだった。 その後デートする仲になり、仕事をクビになるとクリスはいつのまにかシェリのアパートに 住み着くようになる。 電話もテレビもなく、装飾品や家具は全部リサイクルショップで買ったものだった。

その後も交際を続け、89年12月、クリスとシェリはユーゴスラヴィアにいるクリスの 父を訪ね、ふたりはその帰路に婚約する。 彼らの住むタコマのアパートで身内だけを招いた結婚式をシェリの知り合いの 仕切りで行った。 アパートは家族や友人でにぎあい、主な参加者にはクリスの母親、シェリの 母親と継父、カートとトレイシー(当時の恋人)、マッドハニーの メンバーなどがいた。

ヘロイン 画像

ヘロインが一般的となって、サブ・ポップ・レコードと関わった 大勢の人間がやり始めた。カートはその中でも最後の組だった。

カートは自分の日記のなかでヘロインを常用することについて書いている。 「これまで何度も、自分がなにもできない状態になったことがあった。 ベッドに何週間も寝たきりで吐いてはひもじい思いをする。だから決めた。 ジャンキーのような気分なのなら、本物のジャンキーになったほうがいい。」

ニルヴァーナのブレイク後からヘロインの摂取は激しさをまし、 何度もオーバードースで倒れるようになる。 92年から亡くなるまでの2年間、何度も病院での入退院を繰り返した。 ビデオ・ミュージック・アワードに出た時も、一時退院の許可を もらってのことだった。

カートは他のロック・スターたちと違い、ヘロイン使用を 否定し続けていた。 「ツアー中にヘロインなんてありえないって。そんなことできるバンド なんかない。キース・リチャーズみたいに3日ごとに輸血されるか、 売人が同行してドラッグを調達してくるか以外はね。」

エディ・ヴェダー 画像

アクセル・ローズ 画像

カート、クリス、デイヴの3人が最も影響を受けていたのがメルヴィンズであり、 ニルヴァーナがメルヴィンズのファンだということでメルヴィンズはニルヴァーナのブレイク後に 注目された。
ニルヴァーナがブレイク前までシアトルで一番人気のあったバンドが マッドハニーだったため、マッドハニーの前座をニルヴァーナは 何度もしていた。そして彼らはお互い仲がよかった。

カートはソニックユースやR.E.M.のような初期オルタナ・バンドのファンであり、 彼らを尊敬していた。
カートはセックス・ピストルズやラモーンズなどパンク・ロックが 全体的に大好きだった。 70年代のハードロックも好きで、レッド・ツェッペリン、ブラック・サバス、 エアロスミス、AC/DCも好きだった。 クイーンも好きだったが初期のころは、 自分のクイーン好きを隠していた。 最も以外なのはカートがギャングスタ・ラップ・グループのNWAを好きだったこと。

ニルヴァーナと同じ時期にグランジブームを盛り上げたパール・ジャムとは、 対立関係にあった。というよりカートがパールジャムを一方的に嫌っていた。 カートはパール・ジャムのことを「マッチョな男根主義のかっこつけ野郎」と呼んでいた。 だが、ニルヴァーナがガンズ・アンド・ローゼズと対立後、パール・ジャムのシンガー、 エディ・ヴェダーと和解した。「世の中にはもっと悪いやつらがいっぱいいるから」 ということだった。

ニルヴァーナ、特にカートが最も嫌っていたのが80年代の商業的ハードロック バンドだった。ボン・ジョヴィ、ヴァン・ヘイレン、ブライアン・アダムス、その他 多数のバンドに対し、プレスを通じて批判を行った。

最も対立関係にあったバンドがガンズ・アンド・ローゼズだ。 ガンズ・アンド・ローゼズというバンドは、カートが、そしてカートの第二の故郷 オリンピアが最も嫌悪していたロックバンドだった。 カートは「ロックンロールの誕生以来、そこにはアクセル・ローズがいる。 そしてそれは俺にとって退屈以外のなにものでもない」と話している。

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